徒然草リターンズ〜これがきゅうちゃんの生きる道〜

アラフィフバツイチのわたしの好きなこと、体験したこと、考えてることなどをつらつらと。

母がしんどい 〜幼い頃のわたし〜

うちの母は愛情深いひとです。
子どもたちを本当に愛していました。

そう。自分勝手に。

●母というひと

母は完璧に何から何までこなすひとてした。
わたしは貧しい家だったにもかかわらず何不自由なく暮らせていたと思います。
そこは本当に感謝しています。
ただ、自分の思い通りにならないと気がすまない母に対して、わたしいつも応えられるいい子であろうとしました。
母のいうとおりにしておけば、幸せでした。
ただ、うちは友達を家に連れて来ることは許されませんでした。
完璧な母は、自分が仕事で不在のために散らかっている家を他人に見られるのを極端に嫌いました。
わたしが本棚の漫画を読むことも気に入りませんでした。
棚の配置が少しでもずれると機嫌の悪いのがわかりました。
髪型や服装も、もっと違うものが好きだったのに、自分の好きな格好をすることは許されませんでした。
「お母さんのいうとおりにしていれば全部大丈夫」
重たい呪文でした。

●家族のこと

わたしは親が喜ぶように勉強をしていい成績を取り、親の機嫌取りと自己満足をしているような子どもでした。
それでも長男の弟は大事にされ、わがまま放題。聞き分けのいいわたしはいつも後回し。

父の勤めていた会社が倒産し、家はさらに貧乏になりました。そのくせ、パチンコに依存しており、サラ金から借金をしたり、預かっていた人のお金を使い込んだり。
母は返済のために夜の仕事も始めて、家に居なくなりました。
毎月のように住宅金融公庫から、住宅ローンの督促の電話がかかって来るのですが、親がいるときも、電話に出るのはいつもわたし。
母親からは、「親は留守と言え」と言われており、そこにいるのに嘘をつかなければならない。
とても嫌な仕事でした。わたしの電話嫌いは、こういうことがあったからなのかもしれません。

父と母の喧嘩も増え、母は時々家出をするようになりました。
弟だけを連れて。
荒れて酔った父の介抱はわたしひとり。
母は、わたしのことは可愛くないのかな、と思う反面、父が可哀想で、残るのは仕方ないと思っていました。
父は、愛情深く、お嬢、お嬢とわたしを呼び、いろんな本を与えてくれた。
本のおかげで、人と関われないわたしの世界は広がりました。百科事典をくれたことで、いろんなことに興味を持ちました。
ただ、すぐカッとして暴力をふるうことがありました。

●その頃のわたし

成績は良くてもコミュ障だったわたしは、学校では数年間にわたりいじめを受け、親に素直に話すと学校長に文句を言いに行かれて、さらに陰でいじめられるというループに入っていました。
このとき、もう親はあてにできないのだ、自分で解決するしかないのだ、ということを思い知りました。
あんなに親の言うことを聞いてきたのに、本当の意味で地獄からは救い出してはもらえないどころか、さらに深みへ突き落とされるなんて。
何度か自殺も考えました。この世からいなくなりたかった。
でも、いなくなっても親以外、誰も悲しまない。

それが悔しいから生きてやろうと思った。
それ以来、誰にも付かず、グループにも属さず、一匹狼なポジションを好んで取るようになりました。

親にも表面は合わせるけど、心では信頼関係はもはやなくなっていました。
かといって反発もしない。ずるい子どもだったのです。

それでもどこかで、親のことは嫌いになれない、たぶんまだ、それでも好きだったんだと思います。

思春期のわたしへ続く。