徒然草リターンズ〜これがきゅうちゃんの生きる道〜

アラフィフバツイチのわたしの好きなこと、体験したこと、考えてることなどをつらつらと。

自己分析発表会を終えて

きゅうちゃんです。

自分のことを知ってもらいたいと再開したブログでしたが、精神状態が不安定だったこともあり、結局書けなくなってしまいました。

わたしはリアルタイムで書くことができないんですね。
文章書き始めても続かない。言葉が出ない。途中で止まってしまう。
だから、ネタは山ほどあっても途中までしか書けないまま、下書きが溜まってしまい、もう書くのが嫌になるわけです。

かと思えば、溢れるように書きたいことが出て来て超長文になり、やっぱり載せるのやめとこ、となるわけで。

スピード感が勝負のはずのTwitterでさえ、1日遅れ、ひどい時は3日前のことをつぶやく有様。

今日は想いが溢れるまま、つらつらと書いてみます。

うつ病で休職しちゃいました

そんなわたしは、昨年の10月からうつ病で仕事を休んでいます。

最初はご飯も食べられず、起きることすらできず、だけど元気な時と同じように外には出たくて、体力無いのに無理をして外に行っては、体調崩して寝込んで弱って動けなくて自己嫌悪に陥る、の繰り返しでした。

少しずつ、無理をしなくなって、自分で体力戻すためにジムに通うことができるようになって来た頃、クリニックの先生にリワークプログラムへの参加を勧められました。

●リワークプログラムって?

わたしが通っているのは大学病院の精神科がデイケアとして行っているプログラムです。

仕事への復帰を目標として、月曜から金曜の朝9時から16時の間、午前、午後でさまざまなプログラムに取り組み、職場復帰と再発防止を目指すものです。
状態によって、前期、中期、後期に分かれて、それぞれの職場復帰に向けたプログラムに取り組みます。

プログラムの中には、マインドフルネスや認知行動療法のグループワークがあります。
心を穏やかに保てるような瞑想や呼吸法などを実践を通じて学ぶマインドフルネスは、緊張をほぐしたり、嫌な気持ちになった時の落ち着き方を自身の身体で学びます。
思考と現実は別物で、わたしたちは思考に囚われて現実を見失いがちであること、事実に目を向けると実は自分の思い込みがことを大きく見せていたりすることに気づくことがあります。
認知行動療法では、最初に理論の説明をしっかりと受けてからグループワークに参加します。
グループワークでは、ストレスに直面したケースを参加者から募り、その時の状況を掘り下げながら、自分の思考の偏り、癖を知ることができます。
他者の意見を聞くことで、同じ事象でも違う捉え方があることを知り、自分の思考の癖を取っ払った時にどうなるのかを考えることができます。

前期は体力回復が目的なので、運動や週間スケジュールの振り返り、芸術活動など、軽めのメニューにマインドフルネスと認知行動療法ソーシャルスキルレーニング、個人の勉強をする時間でメニューが組まれています。

中期になると、職場復帰が目的となり、前期の運動や芸術活動の代わりに、JOBトレーニングやグループで発表会やイベントの企画をするグループワークがメニューに加わります。
個人活動の時間は、自己分析が始まります。

●自己分析って?

自己分析では、自分の生育歴や環境から、自分の思考の偏りや行動の癖を確認、整理していきます。
そのうえで、
・なぜ今回の休職に至ったのか
・復職に向けてどうしていくか
・復職後、休職を繰り返さないためにどうしていくか
といったところについて、分析していきます。
それを、レポートにするわけです。

●自己分析発表会

今回の、中期メンバーのグループワークでは、自己分析発表会の企画運営実施がテーマでした。
みんなで役割分担しながら発表会を作り上げるのですが、8月の発表会では運営側として司会を、9月の発表会では発表者として発表する、ということになり、それに向けて準備を進めてきました。

●発表会に向けて

体力が戻ってきたこともあり、復職後も自分のライフワークを続けられるよう、リワークの傍ら、土日には県外のイベントや人に会いにいくことを無理のない範囲で始めています。
できるだけ、日頃のストレスをここで解消して、平日のリワークでは心穏やかに自己分析の作業に取り組むようにしました。
わたしは自己分析のレポートだけで16ページほどあったので、10分間にまとめるのにとても苦労しましたが、スライドはなんとか12枚に収めることができました。
ただ、自分の生い立ちや、休職原因を振り返ることは、わたしにとっては過去の辛いことを思い出す作業であり、精神的にはかなり落ち込みました。
特に、母親とのくだりや仕事でのあれこれは、長年抱えてきた母とのことと、初めて自分にはもうできない、と思った時のことを思い出す作業だったので、精神的にはかなり辛かったです。
そこを人前で限られた時間でどう伝えるか。
精神的に落ち込む中、突発性難聴を発症、毎日ステロイドの点滴を打つことから、副作用による精神的な落ち込みと、身体の浮腫み、だるさが出てきて、身体も少し辛くなった時期もありました。
なんとかまとめてみたものの、言いたいことが溢れすぎて、自分のリハーサルでは17分くらいになるので、どこを削るか、どう説明するかについて考えてきました。

●行動制限

本当に8月の9月の発表会weekは、誘惑との戦いでした。
8月はたいさんとあやちゃんの結婚披露パーティー。
これは、南相馬に行く前日のLCCが昼便しかなかったので、その日の夜にあったスナックCandyで2人と飲む会に参加し、直接会って支援金を渡せたことで、自分の中ではふたりに会えてよかった、と思うことにしちゃいました。
9月は名古屋であったDJわいざんとジャイナゴのコラボ、鈴木重雄のソロライブの2連荘。
これは、前の週にRADIOFISHのライブついでに、ジャイナゴのさちこと栄町かせうでランチを食べることで、名古屋に行けたんだから、と諦めることにしました。
そして万全の体制で発表会へ臨みました。

●発表会を終えて

想いが強すぎて言いたい事はたくさんあったけど、できるだけシンプルに、わたしの精神状態が伝わるように、そして、これから復帰を考える人の分析の参考になるように、できるだけ具体的な内容を14分くらいで発表しました。
スライドはアニメーションも付けて、字の大きさをできるだけ大きく、文字数も減らして、見る人が話のスピードで読めるように工夫しました。
自己満足な内容だったかもしれませんが、前期メンバーからたくさんの質問、意見をもらうことができて、より具体的に内容を補足できたので、時間は少しオーバーしたものの、自分なりにはやり切ったかな、と思っています。

まだまだ復帰に向けての第一歩。
リワークもしっかりこなしつつ、自分の時間を楽しむことができるようになれば、復帰は大丈夫だと思っています。
仕事しながらでもあちこち行けるだけの体力と気力を持ち続けられるように、しっかりリワークと休日のメリハリを付けつつ、マイペースで復帰を目指します。

まあ、こんな感じで書ける時は書けるけど、書けなくなると全くダメなので、長い時も、短い時もあるかもしれませんが、ぼちぼちまたブログにも再チャレンジしてみようと思ってます。

SNSのチカラ

最近、よくTwitterを使うようになりました。
実はこれ、恥ずかしながら、元々はこじらせた恋愛感情のはけ口用のアカウントだったんです。

わたし、ひとと付き合ったことは前夫の一度しかないバツイチですが、惚れっぽいので、すぐ好きになります。
ただ、そこからは夢見がちの乙女気質のせいか、ひとりでバタ狂って告白どころか好意を示すことすらできない。まあ、この辺はまた書こうと思います。

ただ、匿名で投稿できる環境は心地よく、恋心ツイートを全削除した後は、毒吐きアカウントになっておりました。

Twitterがわからない

自分の毒まみれの呟きしかしてなかったわたしは、Twitterの使い方がよくわからず、楽しくもありませんでした。
友達のわいざんがSNSのセミナーでTwitterを推してることは知ってましたが、わたしのような妙齢オンナには使いこなせないものだと思い込んでいたのです。
わいざんのFacebookのライブのときに、「Twitterの使い方がいまだによくわからない」と質問したこともありました。

●相手のことを考えて

その時にわいざんにもらったアドバイスは、「読む人のことを考える。読んでくれた人に有用な情報を発信する」ということでした。
全てにおいて独りよがりなわたしは、人のためになったり役に立つ投稿は皆無でした。
当然、誰にも読まれるわけもなく、ひとりボケツッコミのツイートに終始してました。
でも、どうやったらいいのかわからない。
リツイートってなに?
フォローって?押したらどうなんの?
習うより慣れろ、で見よう見まねで気に入った記事をリツイートしまくってみました。
毒は吐く前に少し考えることにしました。

●わいざんのセミナーを受講して

そんな中、精神のバランスを崩してお休みをいただくことになりました。
すでに半年以上先の予定が埋まってることの多いわたしですが、(もともと多動気味)仕事を休んでいる以上、SNSへの投稿は控えるようにという上司からの指示がありました。
わたしをリアルで知っているひとはわかると思いますが、わたしは良くも悪くも裏表がありません。
だからこそ誤解を招いてもめることもあるわけですけど。
わいざんのセミナーで、「普段からの自分を発信し続ける」こと、「みんながプラスになる内容を心がける」こと、という部分。あと、「始めるのに遅いことはない。今から始めればよい」というところで、実名と紐つかないTwitterアカウントでいまの自分を投稿をしてみることに。
それでも、距離の取り方がわからないままでした。

●feverが招いたfever

そうこうしながら、少しずつリアルで会った方々に絡みながら、返信やリツイートを始めていました。
今年の1/21のDJわいざんの広島クラブクアトロでのライブに参加して、多くの人たちとリアルにつながる中で、なんとなくつながる楽しさを実感するようになりました。
そんな時、始まったのがfeverの投票。
上位に入った5つのコミュニティは上場し、コミュ二ティコインが配られるとのこと。
#なんかよくわからんけど 勝手に乗っかってみた。
「勝手に一日DJわいざん補佐」になり、わいざんの応援していった。
日々のリツイート数はこれまでの数倍、いや、10倍以上になった。
知らない人にも積極的に絡んでみた。
一時は4位まで浮上したけど、結局6位。
それでも、Twitterのコミュニケーションの楽しさ、人との距離の取り方の難しさを体感できた。
わいざんが言っていたことが、なんとなく体でわかった感じがしました。

●勝手にそうし応援団

feverが終わり、一抹の淋しさと、これからどうやって活用して行くかを考えていたら、ひらたそうしくん主催の中田敦彦講演会in福岡の告知が全然できてなくて、チケットが売れてないことを知った。
そうしくんは年末の天才万博でやっと会えて、あったちゃんの講演会、行きたいな、RADIOFISHも天才万博みられなかったなあとそのとき漠然と思ってた。
よし、応援しよう。何をすればいいかわからんけど、まずは拡散から。

そのタイミングで、大阪のちびぃさんが福岡に来るついでにそうしくんに会うという情報をゲット、わたしも厚かましく合流させていただくことに。

わたしは早めに福岡着くので、先にそうしくんの話を聞いてみることにした。

待ち合わせた三越前のライオンに蒟蒻畑のお供え(笑)!

このスポットは待ち合わせスポットらしく、初めて対面する男女が「初めまして」と挨拶を交わし、消えてゆくのを数組見送った。
みんな、頑張って!と意味のない応援を心の中でし続ける。

そんなこんなでそうしくん登場。
サイゼリヤで軽くご飯。
今までの経緯、仕事のこと、実家の犬のこと(笑)、いろんな話を聴いた。
この人、ほんとにステキなひと。絶対完売させてあげたいと妙なスイッチが入った。

ブログも真摯に書こうとするあまり、全く筆が進まないそう。
その気持ちはわたしもよくわかる。わたしもかなりの遅筆。しかも量多い。
気持ちが溢れすぎると言語化できない。
不完全でもいいから、早く出すように勧める。
タイミング逃すのはもったいない。
自分はできてないくせに(笑)。

ちびぃさんの爆発的な営業力に影響されて、やったこともないBOTでの拡散をやってみることに。
やってみないとわからないでしょ。

●たかがBOT、されどBOT

ITは強いと自負していたわたしですが、慣れないTwitterでのBOTはなかなかうまくいかなかった。
パソコンからしかできないので時間の制限もあり、なかなかうまくいかなかった。
自分のアカウントで試してたら、うまくいった。
これ、早く使わなきゃ!!拡散しなきゃ!!
みんなに原稿お願いしたけど、届くのが待てずに、とりあえずコピペして量産して流してみた。

ここで、問題があれば誰かが指摘してくれると甘えてた。指摘があってから修正すればいいと思ってました。
はっきり言って、Twitterの本当の威力がわかってなかった。
もちろん、応援団メンバーからの指示は守りました。
できることはやってるのに。
呟いてしまったBOTの内容がいつまでも消えないのです。
もう、「助けてください!!」とか「集客ヤバイ」というのはあっちゃんの価値を落とすだけなので止めようということで早々に止めたのに、どうして?

そうなんです。
危機感を持って賛同してくれた方が次々とリツイートするので、どんどん広がる一方、内容的には次のステップに進むために止めたいものも拡散されてどんどん広がっていったのです。

挙げ句の果てには、応援してくれてるあっちゃんファンの方たちからも、「あっちゃんが人気が無いと受け止められるのであっちゃんの評判が落ちる。」「風評被害」とのご指摘をいただくことに。
BOTは既に止めているので、手の打ちようがない。
やっぱり文面をきちんと精査してから載せればよかった。ちょっとした焦りが、「せっかく設定ができたんだから、ちょっとでも早く拡散したい」という本末転倒な動きになってしまって、そうしくんはじめ、ちびぃさんやかよちゃん達にも心配をかけることになってしまいました。

もちろん、自分にできる精一杯はしていたのですが、かえって評判を落とす形になってしまったのはわたしの焦りだ。
影響の広がり方とかがFacebookなんかとは段違いなのと、古い情報を差し替える方法が削除しかないので、影響についてのちゃんとした知識も持たないといけないというのを痛感しました。

●満員御礼に繋がったSNSのチカラ

とはいいつつも、最後の最後に売り上げが伸び、結果的には立ち見も出る盛況ぶりでした。
これは、本当にいろいろポンコツな面がありつつも、最後は正直に自分と向き合って最大限の努力をしたそうしくん、彼を支える周囲の人たちのおかげだと思います。
そして、SNSの拡散の力。これは本当にバカにできないと思いました。
いろんな人たちが発信を拡散することで、興味を持つ人がひとり、またひとりと現れ、そのひとたちが、また申し込んでいくのを目の当たりにしました。
愚直に毎日、発信、リツイート、リプライ。この積み重ねしかないんです。
そして、勝手に押しかけボランティアスタッフとして、当日の入場整理や案内などにも楽しく関わることができました。
本当にいい経験をさせてもらいました。

まだまだ、Twitterは初心者です。手探りの部分も多いし、なんたって独りよがりになりがち。
だからこそ、うまく使いこなせるように日々実験、勉強です。

長文にお付き合いいただきありがとうございました。

2/22 中田敦彦講演会in福岡 講演メモ

まだ纏めてませんが、聴きながら取ったメモを備忘録がわりに。
読みづらいけどよかったら。

中田敦彦講演会in福岡

講演会二回目。
やってよかった。名古屋の公演、すごいいい思い出になってる。

昨日はRADIOFISH 福岡くるのは久しぶり。
素晴らしい街。賑わってる場所と空港の距離が近い。
博多華丸・大吉の出身地、リスペクト

福岡から出て来た時とオリエンタルラジオのデビューの時期が同じ。2005年
22歳、大学在学中。慎吾は卒業。
華丸大吉はリセットして東京進
吉本からもいろいろ言われていた。

デビューしてすぐ武勇伝でエンタの神様に出させてもらった。
華丸大吉にはフレッシュさない、リズムネタやらないとダメと言われた。
今なら別物だとわかるが、このアドバイスを間に受けていたら、今の朝イチはなかった。

鶴屋華丸 亀屋大吉みたいな名前を博多華丸・大吉に変えた。
それに中田はめっちゃ感銘を受けた。
コンビで決めた時に絶対成功すると確信をした。

場所を変えたら自分の才能が活かせる場所がある。天才の証明にも書いた。
ガレッジセール、沖縄弁を消すために標準語の練習をした。今は沖縄のネタをしている。
普通は出自を隠すのに、博多を大々的に言った→他の人と区別することになった。
あれはすごい。頭がいい人たち。
大吉ジェントルマンだけどすごい人。

質疑応答タイム。20分とる。
聞きたい人、手がなかなか上がらない。
名古屋の二人目の質問者が高校生。一人で来ていた。男子高校生一人参加に意志の強さを感じた。
質問聞いて、「中田さん例え話適切に配置、いつ思いつくのか」という質問。なぜわかりやすいんだろう、例え話がうまいという分析をしている。
悩むレベルにもいろいろある。
高度な悩みもある。
他者の幸せのために動いている。
今日も寝てしまった、どうすればいいか。
低いことは悪いことではない。
誰も持っている悩み。
適切な対応ができたらすごい。
エゴサーチしてみた。
嬉しい中でレポートのブログが上がっていた。
アカウント名高校生。レベルの高い質問。ブログ上げてる。凄くいいブログだった。
うまくまとめていて謙虚。
こいつ高校生か!自己紹介欄見たら、世界一周旅行の為にクラウドファンディングしていた
面白い!お金を出したいモチベーションに人をしないといけない。
一男子高校生、クラウドファンディング
気づいたらダイレクトメールをしていた。
支援したくなってしまった。
まだサイトが立ち上がってない。
直接会ってお金をもらうことにしている。
名古屋に収録に行く時に会おう→東京にきたときに会った
東京までヒッチハイク!サプライズのサグラダファミリア
親にお願いしないのか?
自分はヒッチハイクしたことない。
方法がある→2分で車を止めた
3時間待ってる人もいる。
男女のカップルでヒッチハイクしたら必ず止める。
男二人は怖い。女子二人でも怖い。すけべそうなやつを狙った罠ではないかと警戒。
カップルは安定してる、と思って乗せる。
政治家結婚多い→ちゃんとしてる感が出る。
奥さんいて奥さんを大事にしていると思われる意識。
社会的信用→男女カップルであることを知っていた
自分は高校生の時、好きな子が隣にいただけで緊張した。
女の子を誘う、来させる話術がある。
その女の子は彼女なのか?今日彼女になった。
凄まじいやつ。
果実を与えようとしたら果実満載で現れた。
芸人前夜の本を渡した

彼の凄さは全く新しいテクノロジーとイデオロギーを持っている
ブログ、Twitterクラウドファンディング
2000年まではそんな概念なかった。
高校生にして、クラウドファンディングイデオロギーにしている
ネクスネクストジェネレーションに出会った
フィッシャーズはネクストジェネレーション
そいつらよりさらに次の世代はクラウドファンディングを当たり前に使っている。

実績、キャリアが上の世代に敵わないと思っていた。か
あらゆる人間の羨望を集めるのは上の世代、キャリア、実績が力になっていた。
正しいかではなく、誰が言ったかが大事。

4歳の娘。パパみたいになりたい
自分を超えると思っている。
若い世代はこういう武器がある。
アレキサンドロス大王
地球上には有限の土地
世界史の山川をよく読んでいる。
アレキサンダー大王若くして大成功
若き王。革新的なテクノロジーで世界を席巻。
家族連れで戦争に行っていた。
奥さん、子供、愛人も連れて行っていた。
これ止めませんか、といった。

兵士はワガママを言って、連れて行かせたが、強力なリーダーシップで、少数の部隊で全戦全勝
船の技術は勝てない
船を作らずに海軍を全滅
船は常に海の上にいるか?どんな最強の軍艦にも補給のタイミングがある。
敵の港の拠点で待機、陸でボコボコにされた。
あらゆる革新的なアイデア、発想→後で聞いたら当たり前

物が落ちる=万有引力→パラタイムシフト
男子高校生を見たら思い出した。
お金くださいは嫌だ。クラウドファンディング

質問する人、自己紹介はいらない。
質問は全体の利益になるべきと考えてあの質問をした。
その内容をブログにアップ、ハッシュタグ「中田講演会」を入れた。
全てが彼のシナリオどおり。
彼はアレキサンドロス。

この質疑応答を撮影
動画でアップロードする。

トライアンドエラー
春から大学生、トライをたくさんする。
東京の大学へ行く。なんで進歩できてないのは
人の目を気にしすぎたから。
中田さんにはそういう経験はあるか?

その時点で挑戦。素晴らしい。
引っ込み思案、一発目に質問、そんなことはない、さらに謙虚さある。
あんまり気にならないかもしれない。
人の目を機にするのは長所
他の人に想いを馳せることができる力
思いついたらとりあえずやってみる。
どう思われるかを気にしない。
反則ギリギリだけどやってみよう。
吉本男前ランキング
キンコン西野チュートリアル徳井
そこを目指す若手も増えて来た
果たして男前である必要あるのか?本当に顔の造形の勝負なのか?
ランキングに入ってみようと思った。
重複投票あり。AKB方式。
2000票でランキング三回書いて2位になった。
恥知らずと罵られた。そんな恥ずかしいことがのうのうとできるな。どんな神経してるんだ?
→楽しくないですか?
投票方法を見直すいいきっかけになりませんか?
まずやってみよう、後から怒られてもいいや。

モンキーターン競艇の漫画。難しいのはカーブ。カーブの減速が一番のキモ。
転覆は罰金。転覆繰り返す。養成所で最もエラーをした人間が偉大なチャンピオンになる。
偉大な転覆王になってほしい。

中田さんは講演会をされていない、田村さんから始まった。トークショーと講演会の違い、気持ちの切り替えはどうやっているのか?
気持ちの面、伝えたいことは?

講演会やるきっかけまでご存知でありがとうございます。
天才の証明、田村さんが本を売るのにお手伝いしたい、という話で西野さんのノウハウを取り入れてはという提案もらった。
言ってことないのであまり知らない。
トークライブは全然違う。
トークライブは相方とやる。
楽しいことが前提。

講演会は聞く方もアカデミックなメリットを求めてくる、
そんなに器用にレベルチェンジはできない。
しくじり先生の話、相方がチャラい話をしてカフェオレ、コーヒーが求められる現場でコーヒを出してみる、

名古屋と全然ちがう話をした。
今日も何も考えていない。これがうまくハマるかを検証中

自分が大好きなので、自分に向いた競技ができているな、という感じ。

ニュートンアレキサンダー大王の話、周りに否定されても言い続ける信念あると感じた。
止めましょうよ、という時の反発を説得した時のエピソード

想像した。僕の脚色である。二行を僕は膨らませただけ。
反発すごいと想像できたことがすごい。
全員連れて言っての戦だろうと説得した。
きちんと説得したのではないかとホッとする家族といくさに行って死ぬのと一人で行って勝って帰るのとどっちかいいか?
家族いた時こう
家族いなかった時。→家族狙われた。人質取られた。
人はなぜ動くか?常に思わないといけないのはキング牧師
私には夢がある。差別撤廃。
この世に差別がなくなることた。
なぜかが大事
彼なら黒人の差別をなくしてくれるかもしれない

誰かを誘うなら誰かのメリットを明確に語れないといけない。
あなたがたにもめりっとがある。

RADIOFISH オリラジの中田という勝手の信頼で集まってくれた、
ダンサーの活用
やってくれませんか?作詞作曲、実演家の割合はほぼ同じ
作詞と作曲6等分しようと提案した
提示できるように頑張る
何をもって→彼ら全体の利益を生む役割として考えている。

2/22オリエンタルラジオ中田敦彦講演会in福岡

来週の木曜日に福岡で行われるあっちゃんの講演会。
実は、主催者の告知が追いついてないんです〜!!!!
せっかくあっちゃん来るのに。
みんなに聴いてほしいのに。

熱い想いで主催を決めた福岡のそうしくん(@HiratA___)に会いに行ってきました。

そうしくんって?

「ひらたそうし」といいます。
大分の玖珠出身。
背が高いけど、雰囲気がふわっとしていて、威圧感を与えることがない。
風のようなひと。
彼は、作業療法士の傍ら、鉛筆アーティストとしてもその才能を発揮しています。

そうしくんの作品


これは、今そうしくんが希望者に作ってくれてるバナーです。

これが展示されてるレターポット。

こんなのだったり

こういうのだったり。

だったり。

ね?気になりませんか?

彼は、裸眼で掘っているというから驚き!!
単純なものなら、30分くらいで作っちゃうそうです。それもビックリ!!!!(´⊙ω⊙`)
ワークショップなんかもできるそうです。

こんなそうしくんが、今回の講演会をするわけ。

彼の想いはブログを読んでほしいな。
https://lineblog.me/sohshi_hirata/archives/897776.html

真剣にブログを考えるそうしくん。

そうしくんは作業療法士
医療の世界にこそエンタメをという思いがある。
わたしも長く入院生活送っていたし、息子も紫斑病で長く入院していたので、本人や家族が闘病生活、リハビリを楽しく穏やかに過ごせるのではという部分でその考えにはとても共感する。

わたしの想い

あっちゃんが人気がないからチケットが売れてないわけではなくて、今回は主催のそうしくんが忙し過ぎて告知ができてなかったからこそ招いたピンチ。
でも、手伝ってみてわかったけど、オリエンタルラジオ自体知らない人もそれなりにいるし、あっちゃんをただのお笑い芸人としか認識してなくて、「講演会?何、それ?」とか、「オリラジ興味ないです」みたいな反応が返ってくるのも事実。

それでも、「興味はあるけど行けなくて残念」と言ってくれる方はもっといるし、わたし自身あっちゃんのトークや本で、この人は本当に人の背中を押す天才だと信じているので、興味なくても知らなくても嫌いでも聴いてほしいと思ってる。

併せて読んでください

主催者のそうしくんの想い
https://lineblog.me/sohshi_hirata/archives/897776.html

広島のわいざんの名古屋講演会の記事
http://yzan.jp/archives/4347

チケットはこちらから買えます!!
http://sohshihirata.thebase.in/

母がしんどい〜思春期のわたし〜

●中学校のとき

年齢を重ねて自分がしっかりして来ると、親に対しての疑問だらけになります。
なぜ、自分は好きな髪型ができないのか。
好きな服を着られないのか。
禁止されているパーマをかけることを強要されます。
「だってそっちが可愛いから」
わたしが学校で注意されるからパーマは嫌だと言うと、
「天然パーマですって言えばいい」
校則よりも親の希望が優先です。

中学の期末テストで1番になりました。成績がいいときは近所中に触れ回り、わたしが学年トップであることは近所の人たちにも知れ渡っていました。

成績がいいと触れ回る癖に、成績が下がったときはダンマリを決め込むのか、わたしは近所で常に学年トップの人になっていました。
10番くらいに落ちたとき、これも近所にバレるのかなと思っていましたが、修正されることはなかったのです。
もうすでにいい成績を取って親を喜ばすという考えは無くなりました。
大人は欺瞞に満ちていると嫌気がさしました。
勉強もやめ、成績表は親に渡る前に自分で処理していました。

中学でも軽いイジメはあり、野球部に呼び出された女子を助けるために間に入ったのに、その女子たちから「怖い」と無視されることがありました。
カバンに落書きされたり、机に死ねと書かれたり。

もちろん親には相談しないのですが、精神的には辛かったので、進学率の高い市外の高校か、高専にに行きたいと希望したものの、お金がないという理由で市外に出ることは許されませんでした。

●高校のとき

高校に入っても、聖子ちゃんパーマです。
恥ずかしくてたまりませんでした。

指定のコートは高いという理由で買ってもらえず、私服のようなツイードのコートで通いました。

校門の前で脱いで、紙袋に入れてから校門をくぐる。

靴も、可愛いコンビ靴などは買ってくれますが、指定の黒靴は可愛くない、と買ってくれません。
校則違反の常習犯です。
靴下は白を買わないので、先輩からも目をつけられました。
洋服はダサい派手なもの。母の好みのものばかり。

わたしもぶーけで友達みたいな可愛い服が買いたい。

反発して、自分で裁縫バサミで髪を切ったりもしました。

文系理系の選択は、将来の夢を考えて理系に。
親には全く相談せず、ひとりで決めました。

進路選択の時期になり、この家から出るため、自己満足のために、いい大学に入って一刻も早く外へ出るための勉強をすることにしました。

高校でよかったのは、本当に信頼できる友達に出会ったこと。数少ない女友達も、いっぱいできた男友達も、本当にいい人ばかりで、学校はめっちゃ楽しかった。
やんちゃな友達もいて、帰りにしょっちゅうパソコンショップの友達のところにパソコンを触らせてもらいに通ってた。パソコンでいろいろできるのが楽しかった。
高校は3年間、体育祭のパネル絵を担当しました。1年の時はキャプテンハーロック、2年の時は・・・何描いたっけ?3年の時は幻魔大戦
奨学金でパソコン買った。プログラムを打ち込んでゲームで遊んだり、自作の学習プログラムで英語の勉強してた。

●家に帰れない

家が本当に嫌でたまらず、毎日のように友達のうちでご飯をもらって食べて帰っていました。
出来るだけ母に会わないように。
友達のお母さんは、多くは聞かず笑ってご飯のおかわりを促してくれるようなひとだったので、とても救われました。
高校最後のバレンタインにチョコが食べれない当時のわたしの片思いの相手のために、チーズケーキを練習させてくれました。
当日失敗して、落ち込んで泣くわたしのために、サンドイッチを作って、これを彼に渡しなさいと渡してくれました。
大きな箱入りのサンドイッチ。高校最後の思い出に(卒業直前)バレンタインデーに渡しました。(それだけで終わった)
自分のお母さんのように慕っていました。
生徒会の役員や実行委員は進んで受けました。帰りが遅くなっても大義名分があるから。
仲間と、遅くまで残って作り上げる楽しさはこの時に知りました。
ただ、親は面白くなかったのか、当時大好きだった人が送ってくれたときも家の前で仁王立ちで、送ってくれたお礼さえ言ってはくれませんでした。

●大学を諦めるなんて

大学に行くために、奨学金ももらえるように自分で手続きしました。

理系の大学を目指すわたしに、「何故文系に行かなかったのか。教師になるんじゃないのか。」と両親。
進路ひとつでも大げんかでした。
わたしは本当は医学部に行きたかったんです。
だけど、六年も大学に行かせてもらえないし、実力も足りなかった。
だから、好きなパソコンが活かせる工学部を目指していたんだけど、それも大反対でした。

私立大を受ける代わりに滑り止めで受けた公務員試験に受かったわたしに、親はこう言いました。

「弟はわたしよりも頭が悪い。だけど長男だ。彼は大学を出してやらんといかん。お前は女だ。学は必要ない。公務員に受かったのだから、進学は諦めて弟に譲ってほしい」

わたしは最後の希望も捨てることになりました。

なぜなら、父が倒れて収入が母のパートのみになったにもかかわらず、弟はまだ高校生だったからです。

当時のわたしには、選択肢はありませんでした。
からしたら、できたことはたくさんあると思いますが、当時の甘えきったお子ちゃまなわたしには無理だった。
だから、結果的には行っていない。
高卒。それもわたしの選択だったと今は思います。

当時は自分より成績が下の人たちが大学へ進学することで、屈辱的な気持ちになっていました。
どんなに成績がよくてもわたしは高卒なんだって。
とんでもない思い上がった嫌な奴でした。
素行を悪くしようと思えばできるのに自分が損するだけなので表向きはいい子を装ってるところなんて最悪でした。

母がしんどい 〜幼い頃のわたし〜

うちの母は愛情深いひとです。
子どもたちを本当に愛していました。

そう。自分勝手に。

●母というひと

母は完璧に何から何までこなすひとてした。
わたしは貧しい家だったにもかかわらず何不自由なく暮らせていたと思います。
そこは本当に感謝しています。
ただ、自分の思い通りにならないと気がすまない母に対して、わたしいつも応えられるいい子であろうとしました。
母のいうとおりにしておけば、幸せでした。
ただ、うちは友達を家に連れて来ることは許されませんでした。
完璧な母は、自分が仕事で不在のために散らかっている家を他人に見られるのを極端に嫌いました。
わたしが本棚の漫画を読むことも気に入りませんでした。
棚の配置が少しでもずれると機嫌の悪いのがわかりました。
髪型や服装も、もっと違うものが好きだったのに、自分の好きな格好をすることは許されませんでした。
「お母さんのいうとおりにしていれば全部大丈夫」
重たい呪文でした。

●家族のこと

わたしは親が喜ぶように勉強をしていい成績を取り、親の機嫌取りと自己満足をしているような子どもでした。
それでも長男の弟は大事にされ、わがまま放題。聞き分けのいいわたしはいつも後回し。

父の勤めていた会社が倒産し、家はさらに貧乏になりました。そのくせ、パチンコに依存しており、サラ金から借金をしたり、預かっていた人のお金を使い込んだり。
母は返済のために夜の仕事も始めて、家に居なくなりました。
毎月のように住宅金融公庫から、住宅ローンの督促の電話がかかって来るのですが、親がいるときも、電話に出るのはいつもわたし。
母親からは、「親は留守と言え」と言われており、そこにいるのに嘘をつかなければならない。
とても嫌な仕事でした。わたしの電話嫌いは、こういうことがあったからなのかもしれません。

父と母の喧嘩も増え、母は時々家出をするようになりました。
弟だけを連れて。
荒れて酔った父の介抱はわたしひとり。
母は、わたしのことは可愛くないのかな、と思う反面、父が可哀想で、残るのは仕方ないと思っていました。
父は、愛情深く、お嬢、お嬢とわたしを呼び、いろんな本を与えてくれた。
本のおかげで、人と関われないわたしの世界は広がりました。百科事典をくれたことで、いろんなことに興味を持ちました。
ただ、すぐカッとして暴力をふるうことがありました。

●その頃のわたし

成績は良くてもコミュ障だったわたしは、学校では数年間にわたりいじめを受け、親に素直に話すと学校長に文句を言いに行かれて、さらに陰でいじめられるというループに入っていました。
このとき、もう親はあてにできないのだ、自分で解決するしかないのだ、ということを思い知りました。
あんなに親の言うことを聞いてきたのに、本当の意味で地獄からは救い出してはもらえないどころか、さらに深みへ突き落とされるなんて。
何度か自殺も考えました。この世からいなくなりたかった。
でも、いなくなっても親以外、誰も悲しまない。

それが悔しいから生きてやろうと思った。
それ以来、誰にも付かず、グループにも属さず、一匹狼なポジションを好んで取るようになりました。

親にも表面は合わせるけど、心では信頼関係はもはやなくなっていました。
かといって反発もしない。ずるい子どもだったのです。

それでもどこかで、親のことは嫌いになれない、たぶんまだ、それでも好きだったんだと思います。

思春期のわたしへ続く。

古屋兎丸先生生誕祭でのこと。

日曜日の阿佐ヶ谷の「古屋兎丸生誕祭」にラッキーにも急遽参加できるようになったのは前回ブログに書いたわけですが。

やってきました阿佐ヶ谷ロフトA。

会場に入る前に個展のポスター。

また来ないと行けなくなりました。ヴァニラ画廊。

会場に入ると、サイン本を一冊ずつ手渡しされる。
これはプレゼントらしい。
わたしは「ライチ光クラブ」。

これは欲しかったやつなので、嬉しいサプライズ。

ステージにTシャツが8枚飾られてて、このTシャツは、質問を読まれた方にプレゼントとのこと。
いつもは書かない質問を、せっせと書く。
聞きたいこと、プラスチガールの原画観て異素材の組み合わせに驚いたこと、乗られてるバイク(トライアンフ)の話、あと、なんだっけ。
音楽のことも、わたしと同年代とは思えない若さの秘訣も聞いてみたい。
聞きたいことありすぎていっぱい書いたけど、まさか読まれるはずはないと思ってました。

Tシャツも、HAKUEIさん達とのコラボの漫画兄弟のもの、氣志團のグッズTシャツ、女子高生に殺されたいのグッズ、ライチ光クラブのグッズ等々レアなものばかり。
わたしはライチか漫画兄弟だなあと漠然と思っていた。

なんと、飲み物だけでなくご飯も食べられるとのことで、早速メニューを。

先生と考案とのこと。πカレーは想像できたので、まずはライチカレーとソーダを。

これ、ガチでライチでした。ちょっとえぐみのあるライチ2粒。

複数頼むと旗もらえるんです。

思わず頼むよね。
抽選券ももらえました。確率UP!!

結局お腹足らずにもう2品。
πカレー。

タイカレーともかけてあり、グリーンカレーで美味しかった❤️
今回の旗はノーマルロゴ。

で、質問コーナーなんですが、な、な、なんと一番に読まれてしまいました!!
8枚のTシャツから選べるのです!!
こんなことがあるのかと震えましたが、一番聴きたかったバイクの話から入ってくださったのに、もう感激ともろもろでボーゼンとして、トライアンフとノートンのバイクメ〜〜ンからの話しか入って来なかった!!ノートンもお持ちなのですね。

Tシャツは悩んだ挙句、漫画兄弟のキャラものを。
なっとうざむらいでもなく、クマのキャラクター。
もう、かなりの運を使ったかもしれない。

かなり書きすぎたので、古屋先生の話はまた書きます。

わたしが兎丸先生を知ったのは、二方向からの偶然でした。